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37●岡山市民の文芸忘れられない昭和二十年 終戦から六十年の月日が流れ、現在では既に一つの歴史となり、あの年のことを覚えている人も年毎に減り、この平和と豊かさに忘れ去られようとしている。 私は六月二十九日のアメリカ空軍による岡山市内の大空襲で千七百余名の死者と約六千人の負傷者を出したことは忘れる事ができない。思い起こせばあの日の朝、三時過ぎに「岡山が空襲じゃ、早よう起きてこい。」と、父の大声にビックリして家族皆んなが飛び起き外に出てみると、茶屋町から見ても東の空が真っ赤になっていて、その炎は夜明けまで空を染めていた。 父の妹である叔母が岡山に嫁いでいたが、叔父の転勤で旧満州の新京に赴任していて弟さんは出征して老いたご両親だけだったので父も心配していたが、市街には死体が転がっていてすぐには行くことができなかった。 そして三日後に父と自転車に米、野菜を用意して見舞に行った。現在は運動公園になっている当時陸軍の練兵場近くの家であったがその近く迄焼失していたが叔母の家は幸いにも残っていてご両親も無事で安心したのだった。 でも当時は木造住宅がほとんどで燃えた匂いと人の焼死臭が一面に漂っていたのは現在になっても忘掲載日:平成17年

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