新しいブック
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38れられない。 昭和六十年よりこの日を「岡山市平和の日」と決定されたと聞いている。 次に八月十五日終戦の日、この日迄には日本の主要都市は殆んど米軍による空襲を受け、八月六日の広島原爆と九日の長崎原爆により日本も終戦に踏みきったのである。 八月十五日の朝、ラジオで「今日正午、重大放送があるので国民皆是非ともラジオを聞くように。」と、放送があった。 私は当時、茶屋町農業会に勤めていたので職員皆で「何の重大放送だろうかなあ…・」と言い合っていた。 十二時になると組合長がラジオのスイッチを入れて、皆んな弁当を食べながら聞いていると忘れもしないあの玉音放送であった。 「朕、汝臣民と耐え難きを耐え、忍び難きを忍び……よってここに太平を開かんと欲す。」で放送も雑音が多くてはっきり解らず、終っても何の説明も無いので皆んな夫々の受取り方をしていた。 「何を言うたんなら。」「戦争に負けたことか。」「もっと元気を出して太平になる迄戦え……。」とか、言い合っていると農家の人々が次々に来られて「天皇陛下は何を言われたんなら。」と、個人の家には電話など無い時代、農協や役場が頼り場所だった。

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