新しいブック
45/102

43人で優しい良い人なのに思春期の私は馴染むことができず反抗ばかりしたのでした。妹二人は小学生で「オバサン、オバサン」と、仲良くしていたので義母もとても可愛がっていました。 私が両親と話もしない時などには早目に夕食を用意してくれて、涼み台を出して美しい星空を眺めながら自分の寺小屋で勉強した事等を面白く語り家庭愛が湧くように気配りもしてくれたのでした。 また食事に於いては常に母と相談して祖父母が作った野菜を利用し農閑期には炊き込みご飯、赤飯、おはぎ等を作ってくれました。 寒い冬には祖父が釣ってきた鮒を上手にさばいて里芋、人参、牛蒡、葱等を入れた美味しい鮒めしで体中が温まった思い出もあります。 私が女学校四年生の十月から学徒動員で軍需工場へ行くことになると作業服とモンペが必要になり祖母に相談すると自分の絣や縞の着物を解いて手廻しミシンで友達にも恥ずかしくない物に仕上げてくれた器用な人でした。 昭和二十二年、私の結婚の時には父が米と布団の布地を児島方面で交換してくると、縫い方を祖母に教えて貰いつつ嫁いでゆく人の道をも教えてくれたのでした。 そして私が長女を出産した時には姑さんや継母には気兼するだろうからと約一軒の道程を歩いて私の好物を作り数日間介護に通ってくれた愛情深い人でした。

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です