新しいブック
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57り、国立岡山病院へ検査入院することになり、三ヶ月で退院できたが、その間に戦後の国鉄工事はどんどん進んでおり、「デスクはあってもポストが無い」有様で、しかたなく退職する羽目に。 三十九年に入り、熱が出る日が多くなり、入院して精密検査の結果は被爆による後遺症と分かり、左肺の全摘出を告知され、当時の医術を信じて承諾したのだった。そして五月中旬に、約五時間を要しての大手術であったが、成功して回復も順調で約三ヶ月で退院することはできたけれど、無理は出来ない体になったのである。 また夫の入院中に、舅の持病が悪化して急逝する等の大変な年であったが、私は退院した夫を柱と頼り、どんなことでもして二人の子供の進学希望を叶えさせてやりたい一心で会社に就職して働き、農業も姑の手を借りやり通した。 その後、夫は次第に元気になり、農作業もしてくれるようになると、地域の方々の好意で町内会長、民生委員の役職を下さり、それが生き甲斐となったのか、元気を取り戻してくれた。 私は五十七年三月会社を定年後、地元のポリ袋会社の内職をさせてもらっていた。すると仕事の多い日には夫が手伝ってくれ、この日がきた幸せに感謝いっぱいになるのだった。 平成六年に入り、「夜寝苦しいことがある……」と言うので、一緒に病院へ行くと医師から肺が右だけなので、酸素吸入器を使用するように奨められ、夫は承諾したのである。

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