新しいブック
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73らず一八〇メートルの長い田園の中で汗でびっしょりになりながら何度立って見たことか…。 昭和三十九年になって雑草枯らしの二、四Dと言う農薬ができ早速適量を約十二リットル入りの背負いジョロに溶かして散布したら数日間で草が綺麗に枯れていた時の嬉しさは忘れることはできない。 又稲刈りが大変で一株づつ鎌で刈り約二十株位に重ねてゆく。夫が出勤してすぐに田に出ても一八〇メートル往復すれば晝食となるので娘が誕生してからは乳母車を田園に持って行けば授乳もでき義母も稲刈りを手伝ってくれたのである。 刈り取った稲が少し乾いたら束にして竿掛けにして乾燥させ夫の休日に脱穀したのである。そして晴天の日に筵に干してよく乾いてから籾すり作業をして米になるのである。 この籾すり作業も当時は組合内での協同作業なので元気な男性が藁俵を作って下さり私はどこの家でも納屋から木桶に籾をいっぱい入れて機械迄運ぶ役で夕方にはクタクタに。 昭和三十年代に入り代掻きもできる耕耘機ができ農家も牛を飼う必要もなくなり、四十年代になると歩いて植える田植機、刈り取り機、稲の箱苗作り機も発明されたのである。 現在のようにコンバインに乗車したままで、田植や麦、稲の収穫もできる農機具は平成になってからであるが値段的に大変であり昭和中頃に両親を見送り、平成八年に夫が急逝してからは近所の若い方にお願いしている。

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