新しいブック
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81ど人間としての溝ができるのだからよく考えて仲良くしてくれよナ…。」と、父はこの言葉が言いたくてこの山頂を選んだことに私も気付き父に申し訳ない気持ちになりただ頷くだけだった。 「学徒動員時代」 昭和18年度に入ると学徒動員令が発令されて夏休み終了迄は学校内へ陸軍の軍服が運び込まれてボタン付けや糸切り等の作業をしていたが九月からは倉敷市平田にあった陸軍被服支廠の工場に動員されて晝夜二交代での七時~六時迄と決められ給食時間が一時間のみの10時間労働であった。 でも夜勤の時、食事後に月夜には看督の先生、腰に軍刀を串した看督軍人を私共女学生が輪になって囲み、軍歌を合唱した事等は今でも夏の月夜には思い出される。 学徒の労働時間は開始10分前に各々の持場に付いて待っていると云う軍隊調故に茶屋町から六名が居たが少し早目に出発して当時のボロ自転車を走らせたのである。 晝勤の夏には涼しい六時頃に出発し帰りも太陽が沈む頃に帰るので丁度良いけれども冬の通勤の辛かったこと、寒い冬空の星を眺めての出勤、帰りも寒い風の中を星を眺めながらのガタく道を自転車を走らすのだから皆んな無口になり茶屋町へ帰るとやれやれであった。これが終戦迄約二年間続いたのである。 隔週一日の登校日が赦されていたが勉強等は無くて校内の掃除、給食用に羽島の山を耕して野菜

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