新しいブック
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82作りをしたり、防空壕を山裾にいくつも掘ったり、藁人形を沢山作り竹槍訓練をしたり、時には五千米競争が寒い日にはありの大変な時代であった。 当時としては高い授業料を納めてこのような事をさせられ現代だったら親達はどんな騒ぎをするのであらうか。でも当時は庶民には発言の権利等は無く従うしかなかったのである。 でも私は農繁期の夜勤の時には午前七時頃には帰宅するので朝食をして晝食迄就寝して晝食後約三時間は田圃や畑の農作業を手伝い又、夕方には工場へと、これも継母には甘えられない心境になり若さでやり通すことができたのである。現在では考えられないことであるが戦争に勝つ為との国策であった。 「茶屋町農業会に勤務」 そして19年に農業会の役員をしていた父が10月の役員会で戦争の為農業指導員の方が出征されて岡山県農業会としても困っているので女子指導員の募集をするとのことを聞き「お前が何かの資格が執りたい」と言っていたので受験の申込みをして帰ったぞ…。」と、私に相談もせずに父も勝手なことを一瞬思ったけれど、合格できるかどうかも解らない事である。挑戦してみるか、なせばなるさと… 当時は岡山県内でも○○郡○○町とか○○村との単位での農業会であり、今回は各町村で一人

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