新しいブック
86/102

84 当時は終戦前のきびしい時代だった故に公職が決定していない人は卒業式を三月末にしても引続き終戦の日迄この工場で働いたのである。 私は4月に入ると県農業会の指令に基き主に出征兵士宅を巡回し指導するとの命目であったが二ヶ月間位の勉強でプロの農家の方に教えられる筈が無く出征兵士宅の悩みの話し相手になる位だった。でも免状を持っている以上は農家を巡回指導が私の仕事故に雨でも降らない限り外回りを続けたのである。 「兄は戦地へ」 実母が急逝した時に父は東京の士官学校へ電報で知らせたが学校からの返電には「この非常時に個人的事情で帰郷は許せない。」との返電で家族でも諦めて母の葬儀を行ったのである。 そして17年3月末、兄の卒業時には日本軍が勝利に向っていた時期で兄は家に帰ることもなくシンガポール方面へ派遣されて行ったのである。19年に入り日本軍は勝利の勢いでビルマ方面に進攻しビルマインパール作戦で兄は戦死したとの公報が入ったのは20年になってからであった。当時は戦死は悲しむことは

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です