新しいブック
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85赦されず「名誉の戦死と」稱される時代であった。 20年に入ると3月10日に東京大空襲があり6月29日には岡山大空襲で一七三七名の方が亡くなられ、約六千人の負傷者を出したのである。その無残な有様を記憶している人も年毎に少くなり、昭和六十年より「岡山市平和の日」と決められたのである。「終戦の日」 昭和20年(1945年)八月十五日朝、ラジオ放送で「今日正午、重大放送があります。国民皆ぜひラジオを聞くようにして下さい。」と。云う放送があった。それ故私はこの日は外回りをせず茶屋町農業会の事務所内に居て正午が近づくと組合長がラジオのスイッチを入れた。 私達職員は弁当を食べながら聞いたのである。それは忘れもしないあの玉音放送であった。ラジオから出る音声は雑音がザーザーと入りよく聞きとれなかった。放送が終っても何の言い訳もなく、職員達は「戦争に負けたことか…。」「いやもっと団結して勝つ迄日本軍を信じてやり抜こう。」とか、皆で騒いでいると農家の方々が次々と集って来られ、個人宅には電話等無い時代で「天皇陛下は何を言われたんなら…。」と、大騒ぎとなり組合長が役場に電話すると「役場でもはっきりとは解らないが戦争に負けたらしい…。」と、「降伏したらしい…。」と、の返事で戦死されている家族の方は大声で「息子を国の為に殺されて、これからどうしてくれるんなら…。」と、涙声でさけび大騒ぎとなって夕暮れ

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