新しいブック
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89 そして自衛隊となってから兄は家族を呼び東京で自分達だけの楽しい生活をしていた。 実家では私より三歳下の妹が三歳の時、三輪車で転び足首の捻挫で少しビッコするようになると父は「親の責任であると当時の清心高等女学校に入学させ、卒業時に開校した清心家庭専門学校にも入学させて和裁教師の免許を得て当時流行の花嫁学校の和裁教師として勤めていた。 一番下の妹は幼い頃、風邪が因で肺炎から難聴となり義務教育のみで父と農作業をしていた。 父も還暦を過ぎると下の妹相手の農作業も無理となり教師に行っていた妹に婿養子をすることに決心し親戚の方にお世話して頂き、井原市からよく働く婿養子が来て下さった。 それ故、実家では祖母と父、妹夫婦、下の妹五人の睦まじい家族となっていたので春秋の祭には私が行き、妹とお寿司を作り、私が自転車で早島療養所に継母を見舞うと母は私の手を強く握り「あんたの恩は死んでも忘れないよ、嬉しい、嬉しい」と泣いて歓び。 私も嬉しくなり涙が流れるのだった。 継母の実家は赤磐郡の山奥で誰も見舞に来てくれる人は無く可愛相な人であった。 その時の笑顔は実家当時には見たことが無い笑顔であり、私は心から話し合ったのである。そして私が帰る時には外に出てきて山の上からハンカチを私の自転車が見えなくなるまで振っていた。まるでドラマのような時の流れで私は雨でも降らない限り毎年母を訪ねたのであった。 そして入院して約八年の歳月が流れた三十四年三月二十三日、病院から実家へ母の急変の報せがあ

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